「ビデオゲームがベビーシッターだと子供はどのように育つか」という、問いがあった。
かつて「リセット小僧」などと呼ばれ、
ファミコンのPSG音を子守唄にした僕は、
この問いにどう答えればよいのだろう。
僕自身のゲーム体験を振り返ってみるに。
僕にとってビデオゲームとは「みんなで遊ぶもの」だ。
自分が、やたら仲の良い3人兄弟に生まれたこともあっただろう。
連射コントローラーやマルチタップ、
『くにおくん』『ボンバーマン』『ファイアープロレスリング』のような大人数で遊べるゲームは
必ず抑えるようにしていた。
ひとつの部屋に4人6人集まることはザラにあった。
多人数でプレイできないゲームであっても、交代でプレイしたり、
ギャラリーに回ってあれこれ言い合ったりした。
果たして自分自身は、そうしたゲーム体験から何を学んできたのだろう。
絵や音楽、コンピュータへの興味。
勝負の楽しさ。
勝ったときの嬉しさ。
負けたときの悔しさとバネ。
傷つき、傷つけられること。
戦争の悲痛さ、銃の恐ろしさ。
協力することの大切さ。
練習を重ねて上達すること。
熱中すること。
ひとつの物事に真剣に向き合い、それに打ち込むこと。
言葉にしてしまえば限りなく陳腐だけど、
そういったことを学んできたんだと思う。
もちろん、僕が育ってきた時代と今現在では、
ビデオゲームを取り巻く環境も、子供たちを取り巻く環境も、遥かに変わってしまっている。
やれ少子化だ、やれ凶悪犯罪だ、と世間では騒がれているし、
彼らにはケータイやインターネットがあり、ビデオゲームに求心力があったころとは訳が違う。
そんなところに、僕の体験をそのまま彼らに当てはめるのは流石にナンセンスが過ぎる。
それでも、
僕が言わねばならない事が、ひとつだけある。
ひとりぼっちでゲームをしてはいけないということだ。
仮に、僕に兄弟も友人もおらず、ひとり黙々とビデオゲームで遊んでいるだけだったら、
果たしてどんな性格の人間になっていたのか。
恐ろしいのでできるだけ想像したくないが、
今の僕にとってはとてつもなく肯定しがたい人間になっていることだろう。
僕には、人が何を”
けれども、ビデオゲームが”きっかけ”になる可能性はあるし、
その”きっかけ”を掴むためのビデオゲームとの向き合い方を教えてくれるのは、
友人、兄弟姉妹、両親、あるいは見知らぬゲーマー、
いずれにしても、紛れも無く血の通った人間なのだと思う。
高橋名人は、せがた三四郎は、何と言っただろう?
『ポケモン』『スマッシュブラザーズ』『ムシキング』『ラブ&ベリー』、
今、子供たちが熱中するゲームに、彼らが何を見出しているのかを知るには、
僕は歳を取りすぎたように思う。
僕はビデオゲームに触れすぎてしまったのだと思う。
僕は、ビデオゲームを愛し、ビデオゲームに育まれた人間のひとりとして、
彼らの得たゲーム体験が、この世を歩いていくための足がかりになることを
ただ願ってやまないのである。
みんなでゲームをして、
うれしいこと、くやしいこと、かなしいこと、たのしいこと、
いいこと、わるいこと、
いろんなことを、たくさん、しってください。
コラム「ゲームの話」はこれで完結です。
ご愛読ありがとうございました。