ゲームの話・外伝02 「僕がゲームの話をするようになるまでの話」
ファミコン発売に遅れること1年と3ヶ月半後、僕は産まれた。
小さな僕は「リセット小僧」と呼ばれたらしいが、物心が無いので覚えが無い。
物心のついた僕は、真っ暗闇のゲームオーバー画面に怯えながらも
皆と色々なゲーム、『くにおくん』や『ボンバーマン』なんかでわいわい遊んでいた。
相手は当時の友人たちのほか、2人の兄だった。
当時の母も何気に『マイティ・ボンジャック』あたりが上手かったのをぼんやり覚えている。
そんな無邪気な僕が、やがてゲームの話をするようになるまでの話。
それは大きく2つの出来事に由来する。
ひとつは、「ゲームの話」内でも書いたことがある、
パソコンとの、ひいては伝説のフリーウェアゲームクリエイター集団『Bio_100%』との出会いだった。
初めては市販のフリーソフトの詰め合わせの中に入っていた『CaraX'92』で、
あとからパソコンをやっている知人から貰ったりして、
ファミコンのゲームに劣ることの無い、テンポ良くバリエーション豊かなゲーム達を
とにかく遊び倒した。
そして、すっかりファンになった僕は、大枚をはたいて彼らのゲームが収録されたムックを買った。
そこには彼らの顔写真が、プロフィールが、座談会が、載っていた。
今でこそ、ゲームクリエイターがメディアの表舞台に立つことは珍しくないが、
当時の僕には「この人たちが、このゲームを作っている」ということが判る、
そのことがとてつもない衝撃だった。
しかも、ゲームを作るには「ぷろぐらみんぐ」とやらをするんだ、ということが書いてある。
「ぷろぐらみんぐ」は目の前にあるパソコンでできるらしい。
幼い僕が憧れないわけがなかった。
実のところ、彼らに対する憧れは今でも残っていて、
僕はプログラミングを勉強し、電算技術者として生計を立てている。
でも幼かった当時の僕は、一人ルールを決めてオセロ板やワープロ機の外字エディタを使って遊んだり、
じゆうちょうを使った手製のゲームで仲間と遊んだりしていた。
思い起こせば何の事は無い、ゲームに対する意識は小さな頃から持ち合わせていたのだ。
裏を返せば”不幸なことに、それしかなかった”とも言える。
もうひとつ、僕の中でとりわけゲームに対する意識を高めたのは
やはり『プレイステーション』と『セガサターン』の、俗に言う「次世代機」競争の影響が大きかった。
我が家に、兄の買ってきた『セガサターン』が来たのだ。
『プレイステーション』と『セガサターン』の時代は、ゲーム表現の変貌が激しい時期だった。
それはつまるところ、黄金期であり、混沌の極みでもあった。
それこそ、『プレイステーション』と『セガサターン』のゲームハード対立だけに留まらず、
3次元表現の発達と2次元表現の衰退、ゲームの大作化・映画志向化とそれに対する”ゲーム性”志向など、
今日まで根付いている様々な論争の種はこの時代に芽吹いているように思う。
そうした中、僕は『セガサターン』で遊びまくった。
『セガサターン』には、アクション、格闘、シューティングなど、
プレイヤー自身の思考や操作テクニックを要求される、ストイックなゲームが多かった。
他にも、一部のソフトには推奨年齢が設けられていて、
PCのアダルトゲームや海外産のバイオレンスなゲームなどが移植されていた。
当時、兄はレンタルCDショップでアルバイトをしており、
新作ゲームをせっせと買ってきたり、店頭用の体験版の余りを持ち帰ってきたりして、
名作、凡作、駄作から超クソゲーに至るまで、プレイするゲームには事欠かなかった。
そんな頃の心の一本は『シルエットミラージュ』となった。
またゲーム雑誌類、
読者による全ソフトの投票がある『セガサターンマガジン』(※当時。現『ゲーマガ』)や、
割と悪名高い『ゲーム批評』を購読することで、
”ゲームをどう評価するか”ということを覚えていった。
今にして思えば、我ながらこれはあまりにもマセていると思う。
とにかく、一連の『セガサターン』との付き合いは、
僕のゲームに対する眼を確実に肥やしていった。
おかげさまで、もはやデブデブである。
『セガサターン』といえば、晩期のCMキャラクター『せがた三四郎』についても触れなければいけないと思う。
『仮面ライダー』の藤岡博演じる『せがた三四郎』は、
「セガサターン、シロ!」というテーマソングとテレビCMでの体当たりっぷりが話題になるが、
彼の真骨頂はむしろラジオCMにある。
我慢を知らない子供には「パッドを通して精神を鍛えろ!」と、
子供との距離を感じる親には「セガサターンで共に遊べ!」と、
受験生には「セガサターン、我慢シロ!」と語りかける彼は、あまりにも頼もしい。
『プレイステーション』対『セガサターン』の当時に起きた、
『酒鬼薔薇聖斗』事件や『ボウリング・フォー・コロンバイン』の銃乱射事件にまつわるあれこれから、
現在の『ゲーム脳』説に至るまで、まるで思慮の無い”テレビゲーム害悪論”が世相に溢れる中、
『せがた三四郎』は、”ゲームとの向き合い方”を説いた数少ない人物の一人だ。
「真面目に遊べ!」
そんな『せがた三四郎』の精神が、僕がゲームの話をする上でのひとつの土台になっている。
やがて『せがた三四郎』が『湯川専務』(※当時)にバトンタッチし、
僕が自分のウェブサイトを持ってから、ゲームの事を書き始めるまでは
さほど時間はかからなかった。
始めのころは、ゲームの紹介文のようなものを書いていた、のだと思う。
もう忘れてしまった。
恐らく今見れば大層恥ずかしいものに違いない。
そうしてウェブを旅するようになり、大いに刺激を受けたのが
ゲームレビューサイト『暗黒式1024』だ。
『暗黒式1024』のレビューは、
ゲームやアニメのネタをふんだんに盛り込んで茶化しながらも、
題材に据えたゲームのある側面を確実に捉えて浮き彫りにし、
普通には埋もれてしまうような作品でも、美点や改善点を確実に見出している。
既に更新が止まり、復帰の見通しは立っていないものの、
自分でゲームレビューを書くにあたって、
大いに影響を受けたし、今でも参考にさせてもらっている。
『暗黒式1024』は、ゲームの話をするにあたっての先輩のような存在だ。
そうして少しレビューが増えた。
当時巷にあふれていた「日記サイト」を嫌い、差別化を図ろうとした僕は、
それ以外の文章コンテンツを持たなかった。
そして、僕はPoint Zeroに辿り着いた。
そのころにはゲームレビューサイトもよく見かけるようになり、
僕は日記でもゲームレビューでもない違った何かをやりたくなった。
そのひとつが『流れ行く戯言』という形になった。
しかしそれまでに親しんできたゲームの事を捨て去ることはできず、
結局ゲームについての文章を書いていた。
そのときに僕はひとつのテーマを自分に科した。
ゲームレビューではない、ゲームについての文章。
ゲームそのもののことではなく、ゲームにまつわる事柄を書こうとした。
自分がゲームから感じ取ったさまざまなことを。
だから題は「ゲームレビュー」ではなく、「ゲームの話」となった。
それが、僕がゲームの話をするようになるまでの話。
それから3年、とにかく話を書いた。
あっという間だった。ただひとつを除いて。
最終回『何を見出すかということ』については、本当に難産だった。
身体も心も締め付けられた。
書いている途中で泣いた。
書いている途中で吐いた。
それでも、自分の中にしかない想いがあると、自分にしか書けないものがあると信じて書いた。
普段は1日2日あれば書き上がるのに、時間がかかった。
一字打つごとに切なさが炸裂した。
泣いたり吐いたりしながら書いた。
そうした苦心の中で書きあがったものは、
特定のゲームタイトルから解き放たれた、本当の意味での「ゲームの話」になったと思う。
本当に書きたかったことが書けた。
書いてしまった。
だから、僕はあの息苦しい文章を最終回として据えた。
『Notrium』というゲームの攻略記事が縁で知り合った、
ウェブサイト『あかんぼぶるー』の管理人さんに言わせれば、あれは「まだまだ先がある」そうだ。
僕もそう思う。
でも、その先をどうこうする自信は、僕には無い。
これ以上、何か伝えようとするなら、それは恐らく、僕自身でゲームを作るしか方法が無いだろう、とすら思う。
そしてそれは、今の僕の心技体では厳しすぎる話だ。
思えば、自分のことを伝えるために、ゲームの力を随分と借りてしまった。
情けないくらい他人の褌。横綱相撲は取れただろうか?
恩返しはしてやれるだろうか?
この先、ビデオゲームはどう変化していくのか。
この先、人々はゲームにどう関わっていくのか。
見当もつかない。
けれども、僕がゲームを止めることだけはしないだろう。
僕のゲームに対する想いは変わらないだろう。
ゲームを愛する一人として。
ゲームに育まれた一人として。
もし、また僕がいたたまれなくなって、長々とゲームの話をするようなことがあったら、
そのときはまた、呆れた顔して付き合って欲しい。